
ユン・ジウォン(윤지원: b.1985)は大学にて絵画を学んだ後、メディアを問わず作品制作や展示企画を行なう現代美術家で、クルプルプロジェクトの第1期生でもある。
これまでアートスペースプル(2010)、クンストハレ光州(2011)、複合文化スペースクル(2012)、安養パブリックアートプロジェクト、KT&Gイメージスペース弘大ギャラリー(2014)、視聴閣、ナムジュンパイクアートセンター(2015)、『月は、冷たく、欠けていく』(国立現代美術館果川開館30年展; 2016)、『8つの作品、作家所蔵』(視聴閣; 2017)、「私、朴正煕、バンカー」(SeMAバンカー開館展; 2017)、ソウルメディアシティビエンナーレ(2018)などの展示に作家・企画者としてかかわってきた。
その映像作品のほとんどは「無題」というタイトルがつけられ、観念的な印象を受けもするが、実際に韓国で起こった事件や現在生きる人々や社会を形作るものについて、過去と現在を連結させつつ提示する作品も発表している。
たとえば2005年に汝矣島のバス停下に偶然見つかった掩体壕(えんたいごう:bunker、朴正煕政権の1970年代、汝矣島は国軍の日のパレードなどに使われる軍事目的の濃い土地であった)をソウル市立美術館に移管・改築し、展示スペースとして2017年にオープンしたSeMAバンカーのオープニング展では、20年以上朴正煕を演じてきた俳優(韓国には特定の大統領の役ばかりをやる俳優が存在する)を映す作品「私、朴正煕、バンカー」が展示された(メディアアーティストのヤンアチが企画した『汝矣島モダニティ』も併催)。
2017年に生きる朴正煕の姿をした男が、1970年代の朴正煕と同じようなことを演じて語る。見る人の中に今いる、そして汝矣島に今ある朴正煕なるものが呼び起こされる。

延世大キャンパス内で、学生団体運営に携わる学生らがミーティングを行っている。
本展『夏の9日間』も「私、朴正煕、バンカー」と似た構造によって見る人の思いを動かす展示だ。
「夏の9日間」とは、1996年の光復節(8月15日)を挟んだ8月12日から20日までの9日間に延世大学校新村キャンパスで起こった、韓総連(韓国大学総学生会連合:左派の大学生団体)の学生らと警察、つまり政府との暴力の応酬および制圧事件、いわゆる「延世大事態」を指す。
延世大学校新村キャンパスでは、その年も8月12日から韓総連の恒例行事である統一大祝典および汎民族大会が開催される予定であった。しかし政府はこれを不許可とする。民族統一を主義とする韓総連が、直前に特使を平壌へ派遣するという行動に出たためだ。しかし学生らが開催予定の日時に延世大に集い始め、集会を抑えようとする警察と小競り合いが始まる。翌13日から警察は大学の封鎖に着手するも、これを韓総連の学生らが暴力デモとキャンパス占拠と立てこもりで抵抗する。
ソウル市内の各所でも韓総連の学生らによる抗議行動が起こるが、騒動の中心である延世大学校正門は特に激しい暴力の応酬となった。投石、火炎瓶の投擲、催涙弾の発砲、棍棒による殴打。
連日のテレビ中継で国民の注目を集め(その多くの場面で政府側に立った報道がなされた)、日を重ねるにつれ兵糧攻めにあう我が子に食料を届けに来て警察と揉め出す学生の親、学生に共感する市民ら、逆に反感を持つ市民らで周辺までもが騒然となる。
結局20日未明に戦闘警察巡警(軍事訓練を受けた警察官)による鎮圧作戦を敢行。作戦途中に投石によって戦闘警察巡警二警1名が死亡、鎮圧後は6千人近い学生と市民が連行された。
この事件により韓国民主化運動の流れを受け継ぐ体系的な学生運動は勢力を失ったうえ、国民の支持をも失うことになる。
また時代的にも個人主義の傾向が強くなり、社会運動よりも自分の勉学や就職を優先させる学生が増えていく。
韓総連は2000年に大法院から利敵団体との判断が下され、2008年には議長選への立候補者がいない弱体化した状態となった。現在は活動の存在が確認されていない。
本事件は発生した時代が民主化以降の1996年で報道の自由が確保されており、その様子がテレビ中継されたこともあって、残された記録は多い。
作家は、その当時の資料映像に韓総連を知る人物が当時を語るインタビューや1969年東大安田講堂事件を語るインタビュー音声を重ねる。そして現在の延世大学校キャンパス内と、現在弱体化しながらも活動を続ける学生団体(延世大総学生会、中央運営委員会、総女学生会、講師法関連構造調整阻止共同対策委員会、進歩学生連帯など)運営メンバーらのディベートのようす、あるいは現在の太極旗デモ(韓国保守派による定期的なデモ。朴槿恵元大統領の潔白、韓米同盟の重視が主張されることが多い)に加わる者のインタビュー、そして民主化宣言を目前にした1987年6月、同じく延世大正門におけるデモで催涙弾を頭部に受け、ひと月後に死亡した延世大学生・李韓烈の容体を伝えるニュース映像を交錯させる。
こうした内容の映像が9つ、暗く、迷路のように区画された視聴閣内スペースのところどころに配置されている。
特に現在の平和な新村の街や延世大学校キャンパス内が映し出されると、現在に連綿と続く過去、現在の中に偏在する過去、それによって区別のつかなくなった過去と現在、記憶を元に他者によって現在語られる過去、学生と延世大という場、学生運動というエネルギーとが明滅し、脳裏に焼き付いていく感じがする。


作家は本展カタログに、本作の制作動機をこのように記している。
「よく知っているものを違う見慣れないものとして認識し直したり、よく知らないものを慣れ親しんだもののように感じる時がある。
映像を通してそうした経験をすることもある。
YouTubeで96年8月の延世大学校の動画を見たときもそうであった。
私が過ごした時間とはまったく異なる彼方から来る異質感、どこからきたのか確かにはつかめない既視感が生む、記憶の部分的な不可能感がある。
その時、この作品を作らねばと心に決めたように記憶している。」
作家は文中で、この9つの映像で構成される作品を「映画」と呼ぶ。
9つの「映画」は特に商業映画のようなストーリーがあるわけでもなく、映画館上映に程よい長尺の映像となっているわけでもない。
1967年に自動車メーカーのフォードが自社宣伝的な同名の映画(”9 Days in Summer”)を制作しているが、あまり本作との共通点は見出せない。
ならば一見ドキュメンタリーともとらえられそうな本作を、なぜ「映画」と呼ぶのか。
映画は観る人の態度を規定しないからなのか、ドキュメンタリーを、フィクションを規定しないからなのか、はたまた映画学者のジークフリート・クラカウアーのような「映画は現存する社会の鏡」「映画は他の芸術媒体よりもより直接的な方法で、その国民の集合的な精神を反映する」という態度なのか。


作家の言葉は以下のように続く。
「今見ている場面と似た場面をかつて見たことがあるものの、正確には思い出すことができないといったように、過去の記憶をうまく処理できない時に既視感は生じる。
今や何かを思い出すということの多くは、何かを探して読んだり見たりすることに代わられている。
私たちは直接考える必要がない。簡単に考えを見つけることができるから。
そのおかげで私たちは、考えてみもしなかった問題に対しても非常に多くのことを知っている。
このとき過去は、一瞬の興味を満たしてくれるWikipediaの読みものやYouTubeの”時間探索”となり、微々たる快楽として作動するのみで、こうして得た知識は確証バイアスのための理由や手段に留まってしまう。」
「この映画は簡単に結論を示しはしない。あなたが知らない真実を伝えるという態度とも遠い。
私は近くの、あるいは遠くの場面との間に互いが浮かぶような、あるいはまた他の場面が浮かんでくるような映画を構成した。
こうした構成を通して、観客がこの映画から、画面から見えないことを想起してくれたらと思う。
どこかで見たような、よく知っている生き方、よく知っている挫折、よく知っている喪失、よく知っている可能性、よく知っている過去、よく知っている新しい媒体のようなよく知るものの中に、よく知らず、知ることのできないことを思い浮かべてくれることを望む。
私は美術というスペース、映画という形式がこうした作用の媒介となれると思う。
つまり私は、漫然とした既視感が想像力になればと願う。」

彼が昏睡状態の間に民主化宣言がなされたが、負傷からひと月後に死亡する。
葬列はソウルから光州、そして彼の故郷まで亡骸を運んだ。

平和なキャンパスは多くの日本人留学生にもおなじみの風景であろう。
展覧会原題:여름의 아홉 날 9 Days in the Summer