
手前には大量生産されている野菜かごや鍋を用いたオブジェが見える。
本展が開かれている「アートスペース光教」は、光教新都市という、京畿道水原市と一部龍仁市にまたがって開発中のニュータウンに作られた水原コンベンションセンター内に設置されたアートスペースである。
光教新都市は、盧武鉉大統領時代にソウルの地価・住宅価格の高騰を緩和するために、首都圏を中心に開発が決定した12の新都市のうちのひとつである。
京畿道都市公社、京畿道、水原市、龍仁市が事業者として構想・開発・ブランディングを行い、2020年12月の京畿道庁移転をもって完成する予定である。
そこに文化振興政策として本アートスペースが作られたわけだが、美術館ほどには広くない。新築の割にわざと天井やコンクリート壁をむき出しにした、最近よくあるリノベーションっぽいつくりの、平面スペースである。
その開館展に、ここ1〜2年で国立現代美術館ソウル館における現代自動車シリーズ(現代自動車が韓国を代表するアーティストを1人選び、ソウル館の1室を与えられ個展を開くシリーズ。2014年イ・ブル、2015年アン・ギュチョル、2016年キム・スジャ、2017年イム・スンフン、2018年チェ・ジョンファ、2019年パク・チャンギョンが選出されている)、恩平文化芸術会館と大規模な個展を立て続けに行ってきたチェ・ジョンファの個展「チェ・ジョンファ 雑貨」展が据えられた。

チェ・ジョンファは日本でもよく知られているように、大量生産されたプラスチックのレディメイドを大量に使ったインスタレーションや、韓国の日常で一般的に見られる白菜の山や福と金を呼ぶ豚の貯金箱、警察官の等身大の人形をFRPで複製し大量に並べるといった作品、あるいはバルーンを使った大型インスタレーションといった作品を多く作っている。
韓国のポップアーティストと言われればこの人であろうし、実際に様々な記事で彼の名はそのように修飾される(韓国の村上隆だとかいう個性ある美術家であればお互い比喩されたくないであろう文句で呼ばれたりもする)。
なお彼自身は自分のことを美術家とは名乗っていない。
あるときはデザイナーと言っていたし(家具づくりやグラフィックデザインもする)、あるときは「職業はチェ・ジョンファ」という、なるほど〜と返すほかない回答すらしている。

さてこの「雑貨」展であるが、大量生産されたどこにでもあるもので作品作りをしてきた作家は、最近「昔どこにでもあったもの」を使って作品作りをしている。
もともと彼は(ならびにその妻は)収集癖があるようで、2014年の「チェ・ジョンファ、総天然色」展(文化駅ソウル284)でもそのおびただしい数の「ガラクタ」が展示されていた。
ただそれは韓国の生活史をも表しており、博物館的意味でも楽しめる。
今回は、その雑貨に焦点を当てた構成となっている。

色鮮やかな刺繍が施された、嫁入り道具の枕がタワーになっている

いずれも大量生産されたプラスチック製のハエたたきとおもちゃの銃を錆びたように加工してフレームをつけている。
者はチェ・ジョンファが韓国のアート界や、ひいてデザインを作る・見るというもっと広い感覚としてキッチュを取り込んだ人物だと思っている。
なおこの造形におけるキッチュさは、実は昔から韓国の仏教寺院の内外にある仏教関係の什器などを売る店には多く見られたものだ。それゆえ彼には蓮の花モチーフが多いのではと思っているが、まだ確かめられていない。
そうしたガチャガチャした混沌の匂いがするような、洗練の一歩手前で発酵を止めるような作風が、チェ・ジョンファ作品の魅力である。
本展では、作家がキッチュなグッズをタイの市場で求めている姿が映像に映されている。
キッチュといっても万国共通ではなく、その国独特のキッチュさが生まれ、国の発展やグローバリズムとともに洗練され、勢力が失われていくものだが、韓国、特にソウルではもはや、洗練されたものしか見ることができないのかもしれない。

気になるのは、最近初期作品も展示するような回顧展的な個展を多く開き、自らを説明しだし、若手作家支援ではなく美術館のある地域の子供たちとの交流プログラムも積極的に行っていることだ。
この人、人生を締めくくり始めているんじゃないか? という疑念が湧いてくる。
そうであっても個人の自由なのだが、時の移ろいを感じてしまう(勝手に)。
本展では、作家に創作意図を語らせた映像が5点ほど展示されてある。
その中で作家は、詩にも聞こえるこんな話し方で、本展について語っている。
(カッコ内は筆者による補足)
「すべての事物は愛を欲し、すべての人間も愛を欲する。」
「必要のために買って使うんだが、そのとき僕たちが見失うのは、」
「取捨選択するときに自分の感情が入らない。」
「その部分を惜しむのだ。愛していながら愛を表現できず。」
「そして普通normal、あるいはordinary平凡だと言われるかずかずのもの。」
「だから僕が”雑貨”と呼ぶものたちは、実は自分のみならず誰もが認める同じ物品であるのに、」
「ある瞬間にはそれが芸術になったり、神聖なものになったり、光になったりという、”そういうものになる瞬間”が生まれるんだが、」
「その刹那の瞬間が何かと言えば、自分の心がその中に溶けて混ざり、」
「そうでありながらすべて(において)見失うものが(あるのは)何かというと、色盲検査表のようなものだ。モザイクのようなものであり、肉の霜降りのようなものであり、」
「そのある瞬間にその多くの砂の中にある一粒の砂が自分のものになる。」
「だから”雑貨”展では、自分のものだ、お前のものだ、ということではなく、自分とあなたが出会って、われわれの話をしようということなんだ。」
「自分の経験……。だから歴史と記憶、記録、記念なんだけど、大きな歴史と小さな歴史、大文字のHと小文字のh。」
「しかし歴史は大文字のHと小文字のhが混ざり合うべきものであり、一方だけで成り立つものではなく、」
「全体が1つの世界でしかないのであれば、どれほどつまらないか。すべてがまったく同じ世界であったなら。(世界は)そのかずかずの違いの連続であり、」
「それがまたさらに連続し、内と外がもう一度出会う。だからすべての物品というものは、生きた死んだというだけのものではなく、」
「死というものは、数多くの誕生を内包している。」
「大量生産された品物もあるが、本展ではhandcraft、手づくりのものも多く含まれている。」
「だから本展では”雑貨”、”光る現実”、”目にまぶしく、かつ取るに足らない”、”記念碑”、このすべてのものは結局愛情に対する物語(であるというか)?」
「人間が欲した愛情なのに……。最近思うのは、僕らは過剰な中毒になっている。過剰な幸福の追求(の中毒に)。」
「そうしたかずかずのものは、”そうではない”と。あなたの前であなたが静かに感じ、しばし立ち止まるそれ。」
「忙しくしているのに、しばし動きを止めて日の光、日差し、そして物思いに耽ること。ひと呼吸置くこと。こういうことが必要だということ。」
「だから雑貨を通して芸術を語ろうということではなく、それぞれの人の記憶、思い、われわれの家族の話、隣家の話、」
「この”雑貨”展で特に僕が感じてほしかったのは、そういうものだったらしい。」
「しかもこの光教アパート群。垂直的ではない水平的な共感。そして(展示内容の)堆積も1990年代から2019年までの水平的堆積。」
「チェ・ジョンファの堆積した層を、ここで横に白餅を切るみたいにスライスしているということだ。」
「だから水平的な交感が非常に重要であり、そのためには僕たちが使う生活の品々の介入が必要ということ。」
「そのために”雑貨”を通して、生活の世界と日常の世界、生活の中にある歌を聴かせる、ということなんだ。」



上写真は左が「息をする花」、右が「Love me」。
下写真は伊藤若冲の「果蔬涅槃図」をモチーフにした「大根の涅槃」。会場内にも「果蔬涅槃図」を金属で作った作品が展示されていた。
展覧会原題:최정화 잡화雑貨 CHOI JEONG HWA GOODS AND THINGS
ソウルって街中にアートがひしめいている印象ですね。
Nam June Paikで楽しませていただいた時代の者です。
(=^・^=)
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