『色、そのまま 朴生光』展 space*c 2004.4.8-6.12

展覧会のメインイメージにもなった『涅槃』(1982年)。


東洋画家・朴生光(パク・セングァン、1904-1985)の生誕100年を記念して、コリアナ化粧品の経営するギャラリー”space*c“にて開催された展覧会である。
韓国のピカソとも称される巨匠だけあって、昨年から特別展などがさまざまな場所で行われている。
その絵は見るからに異様だ。線が力強くのたうち回り、土俗的な荒々しさを突きつけてくる。

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『閻魔図』


朴生光は晋州に生まれ、地元の農業中学入学後の1920年京都に渡り、浪人生活を経て1923年京都市立絵画専門学校(現在の京都芸術大学)に入学する *1。
当時の京都市立絵画専門学校には竹内栖鳳や村上華岳、土田麦僊が教授として在籍しており、円山・四条派の色合いが強かった。
朴生光自身は川村曼舟に師事し、”新日本画”を学んだ。
(今年5月29日にテレビ東京『美の巨人たち』で取り上げられた洋画家の李仲燮〔イ・ジュンソプ〕など、日本統治時代の朝鮮人画家の多くは日本へ留学している)

数々の美術展で入賞し、東京銀座で個展を開くなど1945年の解放まで日本で、1967年のソウル移住までは故郷の晋州(チンジュ)で活動し、1974〜77年には再び東京に渡る。

東洋画家としてたくさんの展覧会に出品・入選し、東京・銀座等でも個展も開いた。
一時は困窮しながらも晋州で「青銅茶房」を開店し、当地の文化サロンとして多くの人を集めた。
またソウル時代は、弘益大学校にて教えながら創作活動を続けている。
しかし、彼独特の世界が花開くのは晩年を迎えてからである。

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『巫俗』(1984年)


もともと朴生光の作品は、京都画の性格が強い、色の露出を抑えたものであった。
晩年、1977年に東京から帰国後、珍画廊で開いた個展、また1981年に百想記念館で開催された個展で注目されるまで、「民族的な熱情を持つ画家」というイメージは持たれていなかったのである。

2002年に日本を巡回した『韓国の色と光』展に出品(『土含山の日の出(仏国寺)』1984年)されていたため記憶されている方もおられるかもしれない。
晩年における彼の絵の特徴は、東アジアの寺院建築に見られる基本の線を朱墨で力強く描き、「丹青」「眞彩技法」などという言葉で称される、鮮やかな色彩で彩色を行なっていること、そして、朝鮮に長く根付く仏教と巫俗(朝鮮のシャーマニズム)を題材にした宗教絵画であることだ。
特に巫俗を扱った絵は、絵自体に何かが憑依しているようで、圧倒される。
巫堂(ムーダン、朝鮮シャーマニズムにおける巫女)の顔は人間の色をしていない。
あの世とこの世を往復する異次元の存在として描かれている。

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『巫俗』1984年


今回の『色、そのまま 朴生光』展は、日本画そのものと思われるような中期の作品(『燕』など)から、キュビズムに影響されたような1970年代の作品(『漢拏(ハルラ)山』など)、模索を経て晩年の作風に行きつくまでを、流れを追って見ることができる。
こうして順々に作品を見ていくと、彼が晩年に向けて加速度を増すようにトランス状態へその身を投げ出したように感じる。
展示は2階と地下1階に分かれていたのだが、地下に多くの巫俗の絵が展示されていた。
ほのかに薫る墨の香、その日他の観客がいなかったせいもあって、まるで古墳やピラミッドの棺室に降りたような霊気を感じる。
動きを感じるほどにどろどろとした、そして力強さとスピリチュアルなものが同居する絵を目の前にした観客は、あっという間に異次元へと誘われる。



展覧会原題:色(색), 그대로 박생광
2018.09.2.改変


後注:
*1:韓国の評論やアーカイブサイトには、朴生光が京都市立絵画専門学校に入学する前に、立川棲雲あるいは立川栖雲、または立川酸雲なる人物の私塾にて絵画を学んだとされる記述があるが、果たしてそういった私塾が日本にあったのか、筆者は確認できなかった。

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