韓国美術行脚

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戦争は見知った顔を
していない

韓国現代美術と6・25

전쟁은 낯익은 얼굴을 하지 않았다

ノ・スンテクは韓国写真界においてルポルタージュ写真の血統をよく受け継いだ作家。韓国軍のイベントにて模擬機関銃(ベトナム戦争をはじめ実戦で多く使われたアメリカ製のM60 を転用したと思われる)を無邪気に構える少女の写真(『よい、殺人』シリーズ)は、国立現代美術館ソウル館『見知らぬ戦争 UNFLATTENING』展のメインイメージにも使われている。
(イラストはその作品から翻案)

本展は朝鮮戦争勃発から70年を記念して企画されたが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行によってほぼWEBサイトでの観覧に終わるという残念な結果となった。



よく知らない6・25を観る

実際に身近に戦争を感じたことのない「そのへんののんきな日本人」である私をはじめ、世界大戦や冷戦から時が過ぎるにつれ、過去の戦争は多くの人にとってよく知り得ぬものとなってきています。
時代が下るにつれ、戦争を実感しようとしても歴史遺産や戦争博物館のような教育・観光ソース化された施設への訪問や第三者的な教材・メディアに接するほかないことは避けようがありません。

そしてそれは、国土において戦争が勃発し、徴兵制があり、対GDP比で高い国防費率を誇る韓国にも当てはまるようです。
国立現代美術館では朝鮮戦争勃発から60年を迎えた2010年6月25日に『忘れられた戦争 現実の分断』展、70年を迎えた2020年6月25日に『見知らぬ戦争 UNFLATTENING』展と、朝鮮戦争の忘却と未知をタイトルに冠した長期大型展が企画・開催されています。


こうした展示では、朝鮮戦争中や停戦直後に作られた作品、そして現代に至ってもなおこの戦争や分断の構造が人々にもたらしているものを表現した作品に触れることができます。

そのうち、戦中や停戦直後に発表された絵画に多く描かれているのは、たくさんの避難民の姿です。

北側の人民軍が最も勢いをもって半島を南下した時期に、戦線に押されるように避難民が押し寄せてきた釜山の様子を描いた朴古石(パク・ゴソク)の『凡一洞の風景』(1950)、命をかけて雪山を越える一団を水墨で描いた金基昶(キム・ギチャン)の『避難民」(1953)、おなじみの牛と家族というモチーフで避難民を描いた李仲燮(イ・ジュンソプ)の『旅立つ家族』(1954)、単純な筆致と鮮やかな色彩で個性がない大量の避難民を描いた金煥基(キム・ファンギ)の『避難列車』(1951)『釜山港』(1952)、一見山水画に見える絵ながら、隅に船で河を渡ろうとする人の群れを配し、橋が落とされた後の漢江を南北に逃げ惑う人々を表現した李應魯(イ・ウンノ)の『漢江渡江』(1950)、釜山に集った避難民たちが形成したバラック街・避難村を描いた韓默(ハン・ムク)『洞里の風景』(1950年代)、梁達錫(ヤン・ダルソク)『房子村/避難村』(1950年)、頭を垂れ、わずかばかりの家財道具や幼い子供たちを連れて進む老若男女を描いた李壽億(イ・スオク)の『6・25動乱』(1954)など、避難民を描いた作家は枚挙にいとまがありません1-3


朴古石(パク・ゴソク)『凡一洞の風景』(1950)
『広場』展[国立現代美術館、2019年]展示風景より
李仲燮(イ・ジュンソプ)『旅立つ家族』(1954)
https://artlecture.com/article/1636より引用
梁達錫(ヤン・ダルソク)『房子村』(1950)
房子とはトタンや薄い板で作られた、雨風が凌げる程度の簡易的なバラックのことを指す。
『BMA 釜山美術所蔵品企画展 すべてのものは互いを作り出す 所蔵品展』釜山市立美術館(2023)展示風景より

李壽億(イ・スオク)『6・25動乱』(1954)
『郷愁:故郷を想う/描く』展[国立現代美術館徳寿宮館、2025年]展示風景より


戦闘員ではない戦争経験者たちの大部分にとっては、戦闘そのものよりも、刻々と変わる戦線に振り回されながらイワシの群れのように逃げ惑うことがよりリアルで、家族離散にもつながる悲劇だったのでしょう。
この期間における韓国現代美術は「戦争リアリズム」と呼ばれ、表現としては停滞期のように扱われがちです。

一方戦場は、従軍画家のスケッチや従軍写真家により記録されました。

金星煥(キム・ソンファン 漫画家)による戦争記録。
上:1950年6月30日、ソウル大病院前の死体、乙支路4街で停車した戦車に群がる子供たち。下:1950年7月30日、鍾路の公園に並べられた死体。キム・ソンファンは戦後、1955〜2000年の長きにわたって4コマ漫画『コバウおじさん』を掲載紙を転々としながら連載する国民的漫画家となる。
『広場』展[国立現代美術館、2019年]展示風景より



生き残った誰も知らない絵

朝鮮戦争を描いた当時の絵画作品の中で、世界的に最も有名なのはパブロ・ピカソの『朝鮮での虐殺』(1951)でしょう。
絵の左手には恐怖で顔を歪ませた裸の母子の集団がいて、右手の西洋の甲冑のような姿をした男性の集団に銃を向けられています。

パブロ・ピカソ『朝鮮での虐殺』
https://www.artsy.net/artwork/pablo-picasso-massacre-in-korea-1より引用



本作は、現在の北朝鮮・黄海南道信川郡で起きた虐殺事件を題材に描かれたといわれています。
北朝鮮ではこの事件を米軍による一般市民大量虐殺(死者3万5383人と主張)と断定し、反米プロパガンダとして大いに活用しています。

こうしたことから、反体制的な煽動源ともなり得る本作が韓国国内で公表されることは、民主化に至るまでありませんでした(2021年『ピカソ誕生140周年特別展』にて初公開)。

また韓国内でなされた創作でも、こうした強烈なモチーフと反戦のメッセージが込められた作品はほぼ見られません。

ここから考えられるのは、米国や韓国軍に都合の悪い議論が起こりそうな表現や題材は、制作前・後を問わず、統制や自主規制などによって失われたかもしれないということです。

しかし唯一、韓国人によって描かれた、直截に戦争犯罪を糾弾する作品があります。
それは、李哲伊(イ・チョリ、1909-1969)の『虐殺』(1951)です。

李哲伊は植民地時代に日本の美術学校へ留学し、朝鮮西洋画の大家・李快大(イ・クェデ)らが結成した美術団体・白友会(ペグフェ、後輩として李仲燮も所属)に参加するなど、美術界のエリートだったといっていい人物です。
しかしのちの彼は、作家としてさほど世に知られているわけではありません。
それは、彼がかなりの寡作だったせいもあります。
表現者としてよりも美術教育者として生を全うした李哲伊は、しかしこの『虐殺』1点をもって韓国現代美術史に大きな足跡を残すことになります

李哲伊『虐殺』(1951)
『広場』展[国立現代美術館、2019年]展示風景より


その絵には、暗闇の中で引き倒され、肌色の腹部から大量の鮮血を流す数名の女性が描かれています。
子どもをおぶった人もいます。
彼女らを、白く光る刀を振りかざし突き立てる、軍服のような色の服を着た男性と思しき人物が囲んでいます。

それを照らす月光。

筆致は粗く、人びとの輪郭は背景に溶けるように描かれており、まともな目撃者は月と暗闇だけで、彼女らの死と彼らの犯罪がうやむやのままであることを示しています。
曖昧に描かれているがゆえに想像力をかき立てられる本作は、1990年2月に遺族が開いた遺作展、および同年6月に雑誌『月刊美術』の6・25美術特集5で「発掘」され、初めて注目を浴びることになります。

1988年から行われてきた美術評論家・金福基(キム・ボッキ)による李哲伊再評価の機運も手伝い、さらに遺作展や画集刊行が行われたすえ、1995年、『虐殺』はわずかながら残された他の作品(『自画像』、1930)とともに国立現代美術館に収蔵されました。


本来なら存在が許されなかったであろう本作が生き残れたのは、家族らの手によってしまいこまれ、40年間陽の目を見ることがなかったからでしょう。
ただでさえ美術品は、戦争が起こればどんなに貴重であったり思想上危険視されないものであっても、消失・散逸したり、軍に強奪・破却されたり、朝鮮半島の場合は文化人とともに北に渡ったりするものです(写真や図録に記録されながら実物が確認できない作品は多数あります)。

なおのこと政治的メッセージが読み取れる作品は、戦争中も、そしてその後の軍事独裁政権により多く失われたことが想像できます。

本作は、「残った」からこそ、韓国現代美術史上無二のものとなったと見ることもできます。

技法や技巧は美術の価値を決めるように思われがちですが、本作でそれは重要ではないかもしれません。
コンサバティブな西洋画を学んだ作家の意図ではないでしょうが、美術の価値とは何かを再確認させてくれもする、現代美術っぽい作品だと思います。



韓国現代写真をつくった6・25

コロナ禍を越えた2023年1月、久々に訪れたソウルで、ミュージアムハンミ三清に行ってきました。
韓国初の写真専門美術館であり、2万点という屈指の写真アーカイブを誇るハンミ写真美術館が2022年12 月に巨大収蔵庫と研究所を擁する別館をオープンしたもので、開館展として『韓国写真史INSIDE OUT 1929|1982』展が行われました。

『韓国写真史 INSIDE OUT 1929|1982』展
(ミュージアムハンミ三清 2023年1月)


本展の中核を成すのが、韓国を代表する写真家・林應植(イム・ウンシク、1912 -2001)の韓国近代写真プリントアーカイブ、および自身の作品のヴィンテージプリントです。
その復元プリントに2年をかけた本展は、韓国写真史を物語るものとして圧巻でした。

まずプリントが精密で美しい。
近現代を写したモノクロ写真は、プリントが繰り返されることや印画紙の性質によって、粗い粒子の像を呈することが多いものです。
しかし、本展の復元プリントは、いく度も見て頭に刷り込まれたようなイメージであっても、まったく別の生々しい質感をもつものとして目の前に立ち現れてきます。

あまりの現実感と生々しさに、
「われわれはただ見られる側ではない、過去ではない、お前たちも常に見る側ではない、いつでもこちら側になりうるぞ」
と話しかけてくるようです。

鄭海昌(チャン・ヘチャン)『女人』(1929)
『韓国写真史 INSIDE OUT 1929|1982』展(ミュージアムハンミ三清 2023年)展示風景より


そしてさらに魅了されるのは、当然と言えば当然の、林應植の写真のすばらしさです。
「生活主義写真」といわれる風景をルポルタージュ的に切り取り記録する手法はもちろん、それが確立される前に撮られた写真も改めてうまい、おもしろい、とうなってしまいます。

本展は林應植の所蔵品から構成されているため、必然的に彼の作品が多くなってしまっていますが、タイトルに「韓国写真史」と銘打たれていることがまったく気になりませんでした。
それはまた、林應植が実際に光復以降の韓国現代写真をかたちづくった人物だからでしょう。

林應植の作品は、朝鮮戦争前後で大きく異なります。

1912年、釜山に生まれた林應植は、中学入学祝いに長兄からカメラをもらったり、バイオリンを習ったりしたほか、次兄は西洋画家となるなど、物心ともに豊かで表現者となることへの障壁があまりない家庭で育ちました。
早くから写真を撮りはじめた彼は、1930年代初めごろから実験的作品が、その後は日本人主導の公募展にて(統治側の人間に好まれがちな)抒情的で郷土的な作品が評価されていきました。

実験的な林應植の作品。
左:『砂』(江陵、1936) 右:『フォトグラム習作1 浮揚』(1933)
『韓国写真史 INSIDE OUT 1929|1982』展(ミュージアムハンミ三清 2023年)展示風景より
写真展向けの抒情的な林應植の作品。『土手をゆく(帰路)』(1935)
『韓国写真史 INSIDE OUT 1929|1982』展(ミュージアムハンミ三清 2023年)展示風景より
抒情的な林應植の作品。『朝』(1946)
https://www.mk.co.kr/news/culture/11168641より引用
記録写真家となった後の林應植の作品。彼の代表作とされる。左:『求職』(1953)、右:『戦争孤児』(1950)
『韓国写真史 INSIDE OUT 1929|1982』展(ミュージアムハンミ三清 2023年)展示風景より



郵便局や逓信局に勤めながら作品の制作に勤しんだ林應植ですが、植民地においてより横暴で、写真撮影を執拗に妨害してくる日本人官憲に嫌悪感を募らせ、「内地」である東京の企業で鉱物などを写真で記録する職に転じます。
ここから、林應植の記録写真家としてのキャリアがスタートしました。
そして1945年8月、光復。

釜山に戻った林應植は写真館を開き、ここを拠点に写真家団体「釜山光画会」を立ち上げます。
また、駐韓米国文化院院長との付き合いから韓国考古学の発掘現場を記録する作業を引き受けることとなり、さらに記録媒体としての写真と向き合うことになります。

しかし、1950年6月25日朝鮮戦争が勃発。
韓国軍は、あっという間に釜山を抱く洛東江の東側地域に追い詰められ、林應植の自宅は前線とともに南へ避難してきた写真家らでいっぱいになります。

人口密度が急激に高くなった釜山では、街に飢えて死ぬ者、避難途中で負った怪我や病を治すあてなく道にうずくまる者、「房子村」のような避難村の劣悪な衛生環境のなか伝染病に倒れる者があふれていきます。

林應植は、回顧録にこう書いています6

もはや写真は「道楽」ではなくなった。
心を強く持たずに、この悲惨な様子をカメラに収めることは到底できなかった。
この悲惨な現実を記録せずに、人々や現実を自分の趣味生活の対象とすることがどうしてできようかという気持ちが先に立った。
今になって悔いているが、自分には悲惨な場面を撮った写真がない。
カメラを投げつけたくなりこそすれ、撮る気にはなれなかったからだ。
あれを撮ることはどうしてもひどい行いであるように思えた。
あのときの私は、記録者としての写真家ではなく、やはり芸術家としての写真家だったのだ。

林應植『私が歩んできた“韓国写壇”』より翻訳

同年9月3日、件の駐韓米国文化院院長から密かに要請を受けた林應植は、国連軍がソウル奪還を図ろうとする仁川上陸作戦(9月15日)に記録写真家として従軍します。
そこで林應植は、これまでの考え方を覆すものを見ることになります。

林應植と同じ目的で軍艦に乗船した『LIFE』誌の写真記者ハンク・ウォーカー(Hank Walker)は、作戦開始まで鼻をほじりながら酒を飲み続けるという怠惰な態度を見せていました。
しかし9月15日午前3時、作戦が始まると、撮影できる明るさがないにもかかわらずウォーカーは船上からシャッターを切り続けました。
それを見た林應植は、ウォーカーの仕事ぶりをふざけていると思ったそうです。

しかし、夜明けのわずかな光の中で撮られたネガのうち1枚が、東京の現像所でなんとか像を結び、この作戦開始をとらえた唯一の写真となったのです。

https://www.life.com/photographer/hank-walker/より引用
(Photo by Hank Walker/The LIFE Picture Collection © Meredith Corporation)


このとき林應植は、「条件がそろわないと撮ろうとしない自分をはじめとする韓国の写真家とウォーカーとには、天と地ほどの差がある」と大きな衝撃を受けます。

こうして仁川上陸作戦はほぼ無事に完遂されましたが、その2日後、林應植は金浦からソウルへ向かう途中で攻撃を受け、負傷します。
「何かの破片が飛んできたものの、眼鏡のおかげで目が潰れず、腰が血まみれになった程度で済んだ」ことを天恵と感じた彼は、目の前の物事を記録し、命を写真に捧げる決心をします。

しかし、傷を癒していた野戦病院を出て友軍が戦闘と掃討作戦を続けるソウルに向かった林應植を迎えたものは、壊滅した街と死体から立ち上る腐臭でした。

怖気づいた彼はウォーカーを思い出します6

「写真記者は不可能に挑戦しなければならず、命をかけて現場に飛び込んでいかねばならない。
そして自分が被写体を撮るのではなく、被写体へと自分をのめり込ませるべきで、ゆえに写真記者は最後のひと息の瞬間までシャッターに指を掛けておかねばならないという教訓を、私はハンク・ウォーカーから学んだ。
(中略)
死体の中には、10代の少年も60代の老人もいた。
何のためにその尊い命を投げ打ったのかを考える前に、私は冷酷な写真記者に戻らねばならなかった。
私は少しずつ芸術写真家から記録写真家に変わっていった。
歴史の現場を記録し残すという、重且つ大な任務を担っているとの自覚を持ち始めたのだった。

林應植『私が歩んできた“韓国写壇”』より翻訳

林應植がソウルに入ってから最初のシャッターを切るまで、3日かかったといいます。
そうして撮られた1950年9月24日の明洞の写真には、かつての抒情性はほとんど見られません。

林應植『明洞(廃墟の明洞):1950 年、明洞、ソウル』
仁川上陸作戦から9日後に撮影された明洞の姿。
『韓国写真史 INSIDE OUT 1929|1982』展(ミュージアムハンミ三清 2023年)展示風景より


この従軍体験以降、林應植は「写真作品は決して美しさのみを映すものではない。人間に起きたすべての現象を表現せねばならない」と、現実をルポルタージュする作風へと、はっきり方向転換していきます。

それは植民地時代に薫陶を受けた、帝国主義的なものが好む芸術から脱皮しようとする、奇しくも戦争というものから生まれた韓国現代写真の新たな産声のひとつでもあったのです。

林應植『裸木』(1953)
『韓国写真史 INSIDE OUT 1929|1982』展(ミュージアムハンミ三清 2023年)展示風景より



林應植のリアリズムとルポルタージュ性は、ノ・スンテクなどの作品に見られるように、その後の韓国写真史における重要な傾向となっていきます。

ノ・スンテク『非情国家Ⅱ』 アートソンジェセンターでの個展風景(2017)。
右端に北朝鮮に砲撃された後の延坪島の空き家を写した作品が見える。




また、仁川上陸作戦から釜山に帰還した林應植は、すぐに韓国写真作家協会を組織し、写真芸術の振興とプロ写真家の結束に努めることで、実質的に韓国写真界(彼は文壇や画壇になぞらえて「写壇」と表現しています)を組織していきました。
さらに1957年、MoMA・ニューヨーク近代美術館の企画写真展『人間家族展』を韓国に誘致し、30 万人もの観客に、写真芸術は眺めて目を慰めるものではなく、現代の海外においてどのような芸術であるかを示します。
彼の活動は、1953年に韓国で初めて設置されたソウル大学校写真講座に出講後、数々の主たる美術大学で教鞭を執るなど、写真家の育成等にも及んでいきます。


そうしながら、林應植は明洞に通い、 亡くなる直前まで街と人々を撮り続けました。
その起点に1950年9月があることは明らかです。
街がまったく違う見知らぬ顔になったとしても、その後ろに、あの時の明洞を見続けていたでしょう。

林應植『交通警察 ソウル・明洞』(1957)
https://koya-culture.com/news/article.html?no=129937

たとえ直接戦争を体験していない世代の作家であっても、韓国現代美術からはいつでも、当時から現代に至るまでのさまざまな朝鮮戦争の側面と今も残る痛みを知ることができます。
朝鮮戦争中に韓国政府や韓国軍の意向で一方的に虐殺された刑務所受刑者および民間人の遺骨を光州ビエンナーレの会場まで運び、それを光州事件で家族を失った遺族会が出迎えるというイム・ミヌクの『ナビゲーションID』、ノ・ソンテクの北朝鮮の砲撃を受けた延坪島の、砲撃後放置された空き家を撮った写真作品群などのように。

イム・ミヌク『ナビゲーションID』 第10回光州ビエンナーレ(2014)展示風景。
コンテナの中には、実際に朝鮮戦争中に刑務所の受刑者と左翼主義者と目された民間人が殺害された慶山コバルト鉱山虐殺事件および晋州民間人虐殺事件の被害者の遺骨が収められている。



最初に触れた朝鮮戦争勃発70年展『見知らぬ戦争 UNFLATTENING』展は、イ・ヒンギ著『イギリス青年マイケルの朝鮮戦争』から、願いのようなこの言葉を引いて結ばれています7
70年を経てもなお。

私たちもいつか、朝鮮戦争をこんなふうに見られるときが来るでしょう。
戦いではなく戦争について話す日が。
敵の残酷さではなく戦争の残酷さを話す日が。
長く続く戦争が人々に残した傷について話す日が。
平凡でない時代を生きた平凡な人々の話をする日がね。

 

李坰謨(イ・ギョンモ)『人民軍離脱者と捕虜たち 全羅南道潭陽』(1951)
『韓国写真史 INSIDE OUT 1929|1982』展(ミュージアムハンミ三清 2023年)展示風景より
チュ・ミョンドク『混じった名前たち』シリーズ(1963-65)
朝鮮戦争を経て爆発的に増えた混血児を捨てる親は少なくなかった。
彼らを受け入れて養育したソウル・ホルト孤児院を中心としたドキュメンタリー写真群。
『ホルト孤児院』展(ミュージアムハンミ三清 2023年)展示風景より

参考文献
1. 국립현대미술관. 국립현대미술관 소장품 300. 서울:국립현대미술관, 2020.
2. 정준모. 하국미술, 전쟁을 그리다 화가들이 기록한 6・25. 서울:마로니에북스, 2014.
3. art in culture 편집부. This is War. art in culture. 2001;2(6):61-95.
4. 이석우. 역사를 일깨우는 그림(2)이철이의<학살 , 1951>. 서울아트가이드.2007 (7).
5. 월간미술편집부. 특집:새 발굴. 새 조명 6.25 공간의 한국미술. 월간미술 1990;2(6):38-76.
6. 임응식. 내가 걸어온 韓國寫壇. 사울:눈빛, 1999.
7. 이향규. 영국 청년 마이클의 한국전쟁. 경기:창비, 2019.

『中くらいの友だち』vol. 12より許可を得て転載・編集

 

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